その日から、私はクリスの病室と私の病室とを行ったり来たりするようになった。ク
リスの状態はそれほど心配する必要もないのだとわかり、すごく安心もできた。ただ、
自分の状態が思ったよりも悪いというのも、自分の両親の口から聞いてしまった。
 私はどうなるんだろう?
 トルタの声に応えたくて、何度か自分の身体に戻ろうともしてみた。そうする方法な
んてわからなかったが、自分の身体に触れてみようとしたり、強く願ってみたり、思い
つく限りのことはしたつもりだった。でも、私は妖精の身体のままわずかに宙に浮き、
全ての光景を眺めていることしかできなかった。

「……ん……う」
「……クリス?」

 ずっと意識を戻さなかったクリスが、そんなうめき声を上げる。すぐに私はその名前
を呼んだが、その声が聞こえるとも思えなかった。自分の身体を自覚してから、トルタ
に何度か話しかけてはみたが、一向に気づく様子もなかった。だから、クリスにもこの
声は届かないと思っていたんだけど……。

「あ……う……アル?」

 開ききっていない、虚ろな目でクリスがこちらを見た。私の……名前を呼びながら。
その瞬間、喜びと同時に恐怖が頭をよぎる。今の私の姿を見たら、クリスはどう思うだ
ろう?
 もしくは、ただうわごとのように私の名前を呼んでしまっただけなら、良かったのか
もしれない。でも、そうは思えないほど、しっかりとクリスは私を見つめていた。
 その瞳が、はっきりとこの現実を映すようになる寸前、私は彼の前から逃げ出した。
 クリスの枕の上から飛び降りるようにして、ベッドの下の地面へと滑空する。そんな
ことができるほどには、この身体にも慣れていた。
 バタン、と音がして、それと同時にドアが開き、クリスのお父さんとお母さんが部屋
に入ってくる。私は今、二人からは見える位置にいたが、やっぱり私の姿は見えていな
いようだった。どうしてクリスと他の人で差があるのかその理由まではわからなかった
けど、つまり私はそういう存在であるという自覚だけは、いやにはっきりとわかった。

「あ……クリス……起きたの?」

 クリスのお母さんが、おそるおそるクリスのベッドに近づき、上半身をかがめた。私
の位置からではよく見えないけど、多分抱きしめているんだろう。
 私はほっとして、起きあがってくるかもしれないクリスからは見えない、ベッドの下
へと移動した。こんな風に小さな身体にならなければわからないことだったが、そのベ
ッドの下は意外にも広くて、埃っぽかった。本当に逃げ回らなければならないんだろう
かと、少しだけ自分の行動を怪しんだりもしたが、続くクリスのお父さんの声に、間違
ってはいなかったのだとわかった。

「……クリス、身体のほうは、大丈夫なのか?」
「え? あ……ああ、大丈夫……だと思う」

 それからやや間があって、クリスが続ける。

「耳が……痛い……けど」
「けど?」
「僕は、どうしてここにいるの?」
「お前は……事故にあったんだよ。覚えてないのか?」
「覚えて……ない。事故? 僕が?」
「あ……ああ」

 そこで、クリスのお父さんが、私の名前を出すのをためらったのがわかった。どうせ
質問されるのはわかっていたから、それもただの弱気に過ぎなかった。でも……。

「事故……本当に僕は事故にあったの?」

 クリスは、私の名前には触れなかった。

「本当に、覚えていないのか?」
「……うん。いつからここにいるのかも、よくわからない」
「そ、そうか」

 そしてその部屋にいる三人が、黙り込んだ。

「……なら、もう少し眠りなさい」

 まるで、それで全てが良くなると思いこんでいるような声だった。クリスはそれに素
直に従ったようで、ベッドのスプリングが軋む音が、私のいるベッドの下の空間に響いた。

「……母さん」
「は、はい」
「とりあえず……外に出よう」

 二人の足が、ゆっくりとした重い足取りで動き出す。私はまだ、そのクリスの言葉の
真意を測れないでいた。

「あ……ねえ、一つ聞きたいんだけど」

 二人の足の動きが止まり、つま先がこちらに向けられる。

「……なんだ?」
「さっき、父さん達がここに来る前に、この部屋に誰かいなかった?」
「いや、誰もいないよ」
「……そっか。ならいいんだ」

 そして、二人は無言で外に出ていく。私は、まだ動けないでいた。クリスが私のこと
を聞かないなんて、そんなことがあるんだろうか?
 すぐに、記憶喪失という単語が頭に思い浮かぶ。その時の私の気持ちを、どう言い表
したら良かっただろうか。安心と虚無が入り交じった、不思議な感覚だった。このまま
私の存在を全て忘れてしまうのなら、それはどれだけクリスにとって幸せなことだろ
う……と考えた。

 そして唐突に、忘れ去られるというのが、どれほど恐ろしいかを理解した。昔読んだ
小説で、飛べない妖精があれほどこだわった理由の一端を、私は見た気がした。
 それきり、動く気力もなく、私は消え去ってしまいたいと思った。その瞬間自分の存
在が希薄になり、自らの手のひらさえも見えなくなっているのに気づく。これもまた、
私の望んだ姿なのだろうか。
 初めてこの病室に来た時と同じように、私は身体をもたない、何者かへと変わってい
た。ただ、時折聞こえるクリスの寝返りの音と、その度に鳴り響くベッドのキシキシと
いう目障りな音だけを、意識の端で意識しながら、それでもまだこの世界に漂っていた。
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